もう喬太郎さえいればいい。吉本興業まるごと要らない。ディズニーランド全然要らない。ユニバーサルスタジオもちろん要らない。紅白歌合戦やめてもらって構わない。なんなら裏番組の絶対笑ってはいけないも不要。ネットフリックスも、Huluも、Amazaonプライムビデオも入る必要なし。それが喬太郎だ。
なぜなら、それらがすべて喬太郎の芸に含まれているからだ。おおげさな? 嘘だと思うならだまされたと思って一度、喬太郎を見てみるといい。実際びっしり詰まっていることに驚くだろうし、んなこと抜きにただただ笑うから。笑わぬ隙を与えてくれぬから。なんてこった、と思ってももう遅いから。それが喬太郎だ。
喬太郎がこちらを見る。目が合う。それだけでまずはおかしい。そして静かに語りだしたかと思えば、一転、奇声を上げるかもしれぬ。それがまたおかしい。人間かと思っていたら、化け物になり、動物になり、女子高生になり、ご隠居になる。これがおかしい。どうみても喬太郎なのだが、変幻自在で一つに定まらない。それが喬太郎だ。
確かに落語家であり、落語を演じているのだが、落語の枠を超えている。体よく言えばエンタテインメントとなるが、それはそれで変な気もする。とにかく喬太郎がいればいいのだ。その時間、同じ空間にいれるとすれば、それ以上望むことは何もあるまい。そんな時間を、生きてる間にあと何度味わえるのか。ああ心配だ。それが喬太郎なのだ。